死んだ後のこと(2)

この世もあの世も想念の世界です。

「お墓に一緒に入ってもう一度辛い思いをする」と思っていたり、「あんな暗い穴の中に、親戚もいるかも知れない墓の中に閉じ込められるのは苦しいに違いない」と思っていると、死んだ後もその思いと同じ環境になって苦しみます。

お墓の中には留まらず肉体から解放された魂(意識)は自由なのです。

私達が息を引き取る(死ぬ)ということは、魂(意識)が肉体から解放されるということなのです。

それまで辛かった痛みからも解放され、医者に止められていた運動や好きなケーキやラーメンだって食べられます。

何故お墓を作りそこに葬るのかなど、肉体や骨をあちこちに捨てるわけにいかない理由は、前回のブログ「もしも命のOFFタイマーがセットされていたら」に書きました。

例えば、道や川、山で死んでそのままだとしたら、私達の肉体やその肉体が侵されていた病気やウィルスは他の生きものを通してどのようになるのか?

“熊や肉食動物の餌食”や“腐る”“アリやウジ虫に食われる”など多々あります。

嫌な人と同じ墓に入るくらいなら、その方が幸せと思う人もいるのかも知れません。

でも実は、死んだ後は私達は自由なのです。

同じところに留まらず行きたいところに行け、やり残したこと、また食べたいものなど思っただけで叶います。既に亡くなっている方や、この世の人にも会いたいと思えば会えます。

つまり会いたくないと思えば、見事にすれ違いながら絶対に会わずに済みます。

では、例えば妻は会いたくないが・・・夫は会えるのを楽しみにしている場合(またその逆や、親せき、知人、友人)でも、どちらかが会いたくなければ、会わなくても何の問題も起きません。

それはこの世でも、「あ、今は忙しいのね。」とまたの機会にと思いながら忘れてしまったり、又は他の用事が出来たりで気にならなくなるのと似ていて、直ぐに状況が変化していきます。

想念の世界は、思ったことが前に現れるので、こちらが会いたくて相手も会いたいなら直ぐに、その状況が用意されます。それは私たちの住むこの世ではちょっと想像できないくらいのスピード、瞬間で用意されます。

でも、片方が望まなければ用意されないのです。

望んだ人の意識は、相手が望んでいない場合は、用意されません。

この世でも、思考は現実化しますが、あの世と違い時間差があります。

時間差がある為に私達は思考(思い・想念)の力がどれほど大切かを認識できずにいます。

この世で、生きることは自分がどのように思考し、幸せで感謝の毎日が過ごせていられるを感じる力です。幸せは数えることで増えるという意味が分かってきます。

つづく

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